2008年9月24日
南禅寺と水路閣
友人を閑居に訪ねたあと、南禅寺に立ち寄り、水路閣に登った。水路閣の建設には、当時、南禅寺の僧侶らから強烈な反対運動が起きたらしい。だが、今では南禅寺の大切な風景の一つに水路閣があり、多くの観光客が訪れる観光スポットになっている。
水は高いほうから低いほうにしか流れない。幾筋もの源流が合わさって、せせらぎになり、それが合流して小川を作り、さらに合流を繰り返して、河川となり、さらには大河になって、最後は大海に流れ込む。要所要所に堰があって、そこに水は一時的に保留されるが、堰が切れると逆巻くように勢いをつけて水が流れだす。
水を高いほうに流すには、二つの方法がある。一つはポンプアップすることで、低地や窪みからの排水にはこの方法がとられている。昔は人力でポンプを動かしていたが、今では電力で、モーターがその役割を果たしている。もうひとつの方法は、高さを保ったままの水路を作り、ここを流すことだ。ローマの水道や、南禅寺の水路閣がこれにあたる。
京都市の川はすべからく北方面から南に流れるが、たった一つ、例外的に南から北に流れている川がある。京都検定にでも出てくるような問題で、意外と正解が少ない。それは、先ほどの水路閣を通った水で、その延長にある哲学の道の横を流れる琵琶湖疏水だ。今は流れる水量が少ないので気がつかないが、北白川周辺の田畑の灌漑や、松ヶ崎浄水場へ送る水道水のための導水路で、建設当初は滔々と流れる水路であった。現在では水道水の汚染を防ぐため、本流は疎水の下に埋設された鉄管の中を流れている。
琵琶湖疏水は、京都と滋賀県大津の標高差に着目して作られた導水路で、建設当時の一番の目的は、水運にあった。琵琶湖を経て送られてきた米や農産物を京都や大阪に送り、瀬戸内海や大阪から送られてきた木材や機械類を京都や滋賀に輸送するのためで、南禅寺にあるインクラインは、標高差をうまく利用し、パナマ運河の仕掛けにヒントを得た、舟を高みにある池に運び上げる仕掛けだったのである。
第二の目的が水道水だ。京都は伏流水が豊富で、どこを掘っても井戸から良い水が汲み出せるが、都市化が進めばそれでも足りない。その最高の解決案が琵琶湖から飲料水を得ることで、東京も、北京も、首都としての弱点は、もしかの場合の飲料水確保にあるといわれ、災害で停電しても安定的に水が供給できる点が重要だ。
第三の利用方法が、灌漑と庭園水、防火用水だ。琵琶湖と京都との高低差を利用して、自然水だけでは足りない北白川周辺の農地を潤し、南禅寺周辺の別荘に庭園水を供給し、東本願寺、西本願寺、二条城に防火用水を提供していた。これも、標高差による水の噴出力が利用されている。
そして、第四の利用が、標高差を利用した発電だ。今でも蹴上の発電所では発電が行われているが、当時、水力発電された電力は、照明でも大きな力を発揮したが、日本初の市電の運行や、ジャカート式自動織機の動力としても大きな役割を果たした。
京都の近代を開いた琵琶湖疏水の建設を主導したのは、当時の北垣国道京都府知事と、東京大学を卒業したばかりの田邊朔郎博士で、その仕組みは、「水は高い方から低い方に流れる」というごく単純な原理だったのである。
ごく単純な原理だからこそ、使ったときには大きな力を発揮する。自然の摂理に逆らっていないから、故障や事故や災害にあうことが少ないし、施設的にも無理を強いることがない。あるがままの姿で静かに年を重ねて、やがては風景になじむ。(080904)